築城450年!三原城について「みはら歴史館」で学んできました

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 今年、三原城が築城450年を迎え、それを記念して昨年末「みはら歴史館」がオープンしたと聞き、先日三原市へ行ってきました。

みはら歴史観
三原城は、今ではJR三原駅の新幹線口にお堀と石垣が一部残っているだけですが、かっては壮大なお城であったと言われています。

三原城
三原城を築いた小早川隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点としました。
これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようです。

三原城は瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた城で、三原城の縄張りは梯郭式であり、壮大な天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭でありました。

※本丸を中心に段下がりに二の丸、三の丸が張り出したように配置された縄張りを「梯郭式(ていかくしき)」といいます。本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られる形です。

天正15年(1587年)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市)に居城を移しました。そして文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居しました。この時期(文禄4年~翌慶長元年)小早川隆景は、再度三原城の修築に取りかかった記録が残っています。

備後園三原城絵図

なお、三原を代表する祭り「やっさ祭り」で披露されるやっさ踊りは、「この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われています。

隆景の死後、関ヶ原の戦いの後には福島正則が安芸・備後に入り、正則は広島城に、そして三原城には養子正之を置きました。
絵図から類推される城域は、東は阿久原川(和久原川:湧原川)から西は現西町まで約1キロメートル、南北には桜山の麓から馬ノ口まで約600メートルに及んでいる。
元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、広島藩の支城として幕末まで利用されました。

明治9(1876)年には、当時の海軍省が海軍鎮守府の候補地として、三原城を買い上げたほどで、幻の軍都だったそうです。(海軍鎮守府は、1883年に呉に設置されました。)
1894年の山陽鉄道開通を境に三原城は壊され、都市化が進んだ影響で三原に城があったことがわからなくなっています。

今年、築城450年を記念してイベント等が行われるそうです。機会があれば一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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