ベーリング探検隊と元文の黒船2

秋と言えば読書の秋。私の読書は多くの人からの共感を得ないものとなりますが、読書の成果として前月からの続きを書かせて頂きます。

先月からながながと書かせて頂いていますが、續きを書かせて頂きます。
第二次ベーリング探検隊日本分遣隊は三隻と一隻に別れ日本沿岸に出没しました。日本各地で記録及び報告され、現在「元文の黒船」と呼ばれている。以下に出没地域ごとにロシア側の記録との記述の違いを確認しながら、状況を書いていきます。

1739年6月18日(元文4年5月)、気仙沼大島沖合に異国船が現れました。元文の黒船が現れた史料上の最初の地点となります。6月24日(五月廿五日)に報告を受けた仙台藩は、6月25日(五月廿六日)に軍勢派遣を決定しました。

陸奥網地島の場合

1739年6月22日(元文四年五月二十三日)牡鹿半島先端の離島である網地島に、2隻が碇泊しました。網地島における日本側の史料には、「異国船に近づき難く引き返し、役人へ報告することにした」と書かれています。ロシア日本分遣隊の記載箇所を要約すると、「6月22日北緯38度23分のある湾に入って投錨。二隻の漁船が漕ぎ寄せて来た。漁民は船上にあがり、食料・日用品を広げたので、織物・ガラス玉・貨幣と物々交換した。」と記載されています。日ロで記録が相違しています。船上にて物々交換をしたという記載は日本側の記録にはありません。
余談ですが、ベーリング没後の1991年7月6日網地島にベーリング像が建立され、宮城県知事やデンマーク大使館関係者が出席のもと除幕式が行われました。ベーリング像は、西北端の網地港近くにある白浜海水浴場にあります。
(写真)

安房天津村の場合

1739年6月24日(元文四年五月二十五日)安房国天津村に異国船一隻が現れました。日本側の記録によると、「上陸し許可なく侵入してきた異国人が、畑や井戸から勝手に食料や水などを収得し、その対価としていくつか物品を置いて去った」となっています。ロシア側の史料の記載箇所を要約すると「投錨した後に大きな船に乗って絹の衣装を着た然るべき公人と思われる人間が近づくので、乗船させて誠意を尽くして酒食でもてなした。その結果、必要なものは何なりと用意するという日本人の水先案内に従い上陸した。最も立派な三軒か四軒に迎えられて歓待された後、いろいろな物品を贈答・交換・売買した。」と記載されています。
日ロで記録が相違しています。日本人が上陸の手引きをしたという記載は日本側の記録にはありません。
余談ですが、2005年1月21日天津小港町に「ロシア人日本本土初上陸記念碑」が建設されました。石碑は現在、鴨川市天津の府入港の傍らにひっそりと立っています。
(写真)

陸奥田代島の場合

6月27日(五月二十八日)には、牡鹿半島先端の西方に位置する田代島で異国船三隻が停泊しているのが確認されました。ロシアの記録では「一隻の大きな船が近づいてきた。身なりのよい高官と思われる4名が船上にあがり平伏してここから立ち去るようにと要求した。平伏して感謝の意を表して4名は退出したが、同じ船は再び細かな品物を積んで再び接近してきた。」となっています。日本側の記録もほぼ同じですが、最後の部分は「浜役人の従者は狐の皮を与えられたので、望まれた紙合羽を与えた」とだけ記載されています。日ロで記録が相違しています。日本側の史料では浜役人が品物を積んで再度異国船に乗り、物々交換を行ったという記載はありません。
和やかな交流があった数時間後、事態は急変します。ロシア側の記載には「本船におよそ九百人の日本人が乗った八十艘の舟が押し寄せたこと知ったシパンベルグは、或は敵対行為が始まる可能性を考慮し、急いで錨を捲き、遂に上陸を試みなかった」とあります。これは6月26日(五月二十七日)に出陣した大番頭鮎貝志摩守成益率いる仙台藩兵がロシア艦隊の位置を捕捉し遠巻きにした為でした。

シパンベルグは脱出するかのように帰路につきました。途上、陸奥谷河浜で住民に銀貨一枚を与えたという記録を残し、青森県尻屋崎付近を通過してカムチャッカ半島へ帰港しました。
幕府は、異国人より収得した銀貨を長崎オランダ商館で鑑定させました。銀貨は書かれている文字から、ムスコビヤ(ロシア)国のものと判明しました。

1766年にヨーロッパでヨハン・ヒュブネル撰『世界総地誌』が刊行されました。『世界総地誌』のロシアの部分には、女帝アンナの時代に行った「北方大探検」についての記載があり、そこに日本への探検としてベーリングやシパンベルグのことが記載されていました。

日本でも1790年には前野良沢が「柬砂葛(カムサスカ)記」を1793年には桂川甫周が「魯西亜志」を『世界総地誌』の蘭訳本を原典として訳出しました。ここにおいて幕府は半世紀前の元文の黒船についてはじめて詳しい状況を把握することになりました。

日本とロシアの記録のどちらが本当なのかはともかく、ひとつの出来事でも当事者の立場によりこれほど報告や記載がちがうという、わかりやすい事例であったと思います。

以上で失礼致します。

参考
『元文世説雑録』○奥州仙臺異国船之沙汰
『日魯交渉北海道史稿』
『通行一覧』 魯西亞国部一 ○渡来并通商願

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